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  • 執筆者の写真佐藤 洋之

開発者と呼ばれて

 私がこの業界に就職したのは、今から三十三年近く前になります。世の中には「パーソナル・コンピュータ」が普及し始めた時期ですが、未だ価格が高く、16ビットのバソコンが、ハードディスク無しで二十万円代という時代でした。


 学生時代は専門学校で商業デザインを専攻していましたが、簡単に言えば、デザインの仕事に挫折してしまい、何か仕事をしなければならないと「週刊就職情報」という、当時あった求人雑誌を見て、自分は一体何ができるのだろうと考えながら、仕事を探していました。


 高校は地元の工業高校で、たまたまコンピュータのハードウェア(情報技術)を専攻していた事もあり、当時としては最先端のシステム開発会社で仕事をしようと面接に応募したのが、全ての始まりでした。


 時はバブル直前の好景気の時代、背広を新調した私は、緊張の面持ちで、地元の横浜にあったCAD開発会社の面接を受けました。その会社は立ち上げて数年目、従業員は十数名のベンチャー企業でしたが、社長面接もすんなり通り、即採用となったのです。


 面接を受けたのは八月で、入社は九月一日。配属部署は「システム開発部」。名刺の肩書は「システムエンジニア」。でも数カ月前まで空間デザインだ平面構成だと勉強していた人間には、仕事場で飛び交う言葉は謎の言葉ばかり。しかも研修とはいえ、ほぼOJTと言う名の現場教育でした。


◆システム開発部

 この会社の開発部は、社員が三名、あと工学部系の大学生が二名いました。そこに私と同期の他二名が新たに加わり、七名の陣容でした。


 部長は大手のCAD開発会社から引き抜かれた28歳の人で、雰囲気は久保田利伸。その下に23歳で創立当初から居る主任。見た感じは「怪傑ライオン丸」の様に顔の半分は髭で隠れた人。あと紅一点の20歳の女子社員。キーパンチはとても滑らかで、聞いたらオペレータから転職してきたとの事。

 あとは大学生が二名で、一人は如何にも遊んでいるなーという学生と、もう一人は歩く計算機の様なロボット的な雰囲気の人でした。


 そこに汎用機の開発経験のある三十代の人と、一時期はプログラマをしていて、この前まで家業のペンキ屋をやっていたというビーパップな人。そして最年少、19歳の私の三名が新たに加わったのです、


 同期入社とはいえ、私だけが未経験者という事で、その他の人は仕事でプログラマをしていたり、システムエンジニアとして現役でやっていた人なので、何か場違いな感じもしていましたが、取り敢えずシステム開発部の一員になったので、全てがイチから勉強でした。


◆質問の仕方

 当時の私を思い出すと、赤面する事が多々あります。何も社会人という意識もなく、学生の延長の様な感じで会社に通っていました。

 仕事内容はC言語により、CADのコマンドを作るというもので、大手建設会社から受注した案件のチームに入りました。しかし解らない事だらけであり、兎に角、先輩諸氏に質問ばかりをしていました。


 そんなある日のこと、開発部に社長がやってきて新入社員に訓示を垂れました。それは以下の様な内容です。


「君たちは開発部のメンバーで、開発者なんだ。開発とは何か、何も手本がないものを作り出す仕事ではないか。だから質問の仕方も考えるように。解らないからと言って、すぐ人に聞くな!自分で考え、解決方法を見つけるのも仕事のうちなんだ!」


 この言葉は私のその後のスタイルに大きな影響を与えました。


 「解らない事」→「直ぐ聞く」

 この様なスタンスが悪いとい訳ではありません。何故ならスピード重視であれば、十分悩むより一分でも聞けば作業が捗ります。しかし問題なのは、表層的な事を聞いても、その時はわかった気になりながら、実は自分自身のナレッジ(Knowledge:知識)として、こういう情報は残らないものなんですね。


 仕事で大事なのは、経験もそうですが、経験に裏打ちされた知識です。そしてより強固な知識とは、より悩んで理解した知識です。


 また「聞き方」という事も重要です。

 解らない事。例えば開発言語の場合、文法やコマンド、また関数や昨今ではクラス等もあると思いますが、それを聞くにも開発者であれば、より深い視点を理解しなければなりません。この理解の深さとは、その疑問点や問題点について「根問い(根本的な疑問)」をどれだけしたかに依ってきます。

 だから自分でまずは考えて、感じた疑問点を感じている自分自身に向き合う事がとても重要なのです。


 この当時に頂いた社長の言葉を、私は今も大事な事だと意識をして仕事をしています。これは開発者という以前に、もしかしたら社会人として大事な事ではないでしょうか?

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